2023年11月16日

しばらく日記が書けなかった。ずっと神経が昂っていて落ち着かない。わたしにはわからないのでと言いたくないから本屋へ行って本を買うけど、自分が本を読める状態にあるかというとそうでもない。

 

2023年10月26日

くぼたのぞみ/斎藤真理子「曇る眼鏡を拭きながら」とファン・ジョンウン「百の影」を買う。

 

2023年10月29日

神保町で本を見た後、三鷹に移動。太宰治の墓参りへ。前回の墓参りからもう5年経つのか。何となく気になっていたので再訪できて嬉しい。

23時を過ぎた頃、俺は今から豚汁を作るぜと大鍋を引っ張り出して調理を始める恋人。何か手伝うことある?と聞いたら、踊るといいよと言われたので少し踊った後、歯を磨いて布団に入って本を読む。すぐに眠くなる。ごま油の匂いが充満した部屋の中で目を閉じて、酔っ払いの歌を聴きながら、彼のタフな優しさにすっかり慣れている自分に気付く。

 

2023年10月31日

29歳になった。半年前の日記を読み返す。「近くに人がいるとわたしはどうしても生きる方向に進む。自分の人生についてはどうにか生き延びたなという感想しかないと思っていたけれど、案外生きるつもりでいるのかもしれない。ひとりになって何かを読むこと、何かを書くことは死に近付くための方法だな、わたしの場合は。どちらにも引っ張られながら生活が続く。死者とともに生きていくにはどうすればいいんだろう。都合良く思い出してはまた忘れていく。耐えられない。」正直でいいな。これがわたしの提示する切実さ。

夜遅くまで散歩する。あなたのまなざしはとても綺麗なものだと思っています、最初から、というようなことを言われる。

 

2023年11月1日

友達の家で友達が作った料理を食べる。

 

2023年11月6日

夏頃から週3日でボクシングジムに通っている恋人。どんどん頑丈になっていく彼の身体を眺めながら、本当に面白い人だなと呑気に感心していたところ、これから毎日ジムに通ってプロライセンス取得を目指したいと言われる。心と身体が最短距離で繋がっていてすごいと思う。わたしはいつも心と身体がちぐはぐだから、そんな彼が時々羨ましい。怪我すると心配だよとだけ伝える。

 

2023年11月7日

ある特定の対象について考える時は頭の中で響く声に文脈が生まれて、聞こえてきてもあまり気にならない。声に対してなるほどねと相槌を打つ余裕も生まれる。そうでない時は意味があるかどうかもわからない単発の声があちこちから投げかけられて、それらを聞き取ろうとするだけで全身が疲れる。わたしにとって何かについて考えないということは、自分の身体を自分ではない誰かに明け渡すこととイコールになってしまう。どうにかならないものか。

 

2023年11月9日

久しぶりの出張。飛行機が苦手だ。搭乗前に缶ビールを一本飲んで離陸前に気絶する。気絶すれば飛行機に乗れる。

出張先で少しでも落ち着いて過ごせるように、本を2冊選んでキャリーケースに入れると決めている。どの本を持って行こうか考えながら本棚を眺めていたら、何の根拠もないけどわたしは大丈夫と思った。

川を眺めながらビールを飲む。

 

2023年11月13日

サラ・ロイ「ホロコーストからガザへ パレスチナの政治経済学」とガヤトリ・C・スピヴァクサバルタンは語ることができるか」を買う。

 

2023年11月15日

阿佐ヶ谷の書楽閉店のお知らせ。悲しい。阿佐ヶ谷での一人暮らしの二年間、日中に外を出歩く体力がなくて24時間営業のスーパーと家の往復になりがちだった頃、24時まで開いている本屋の存在はわたしを本当に励ました。

寒くなってきた。羽毛布団を出す。

2023年10月27日

現実で起きている出来事とそれを認識する自分との距離が適切に測れなくて苦しい。今わたしは苦しいということをちゃんと覚えていようと思う。

本を読む自分自身の特権を自覚しながら、それでも本を読む。疲れている。

連写された何十枚もの同じアングルの写真。そこに写るヘイラは、いずれも口元にうっすらと笑みを浮かべている。占領軍の検問のせいで路上で子を産み落とすことを余儀なくされ、生まれたばかりの赤ん坊を喪った母親に微笑みは似つかわしくない。「あの子は七ヵ月、私のお腹にいた。お乳を欲しがったけれど、あげることができなかった。あの子を空腹のまま逝かせてしまった……」と字幕で紹介されるヘイラ自身の言葉とも釣り合わない。ユダヤ人カメラマンはアラビア語の通訳を介して再三、ヘイラに笑わぬよう求めるが、向けられたレンズを前にした彼女は口元にかすかな笑みを浮かべるのをどうしてもやめなかった。いったいなぜ、ヘイラは微笑むのか?

(中略)

ヘイラは子宮というもっともプライヴェートな身体的トポスのなかで七ヵ月間、大切に守ってきたものを占領によって奪われた。失われた大切な命に対する悲しみ、彼女のもっとも内奥にある彼女自身の大切な気持ち、それだけが彼女に遺された最後の私的なるものであり、占領者に決して譲り渡せぬものだった。ヘイラの悲しみの表情を撮りたいというイスラエルのカメラマンの欲望がヒューマニズムに根差したものであることは疑い得ない。しかし、私的世界とそうでないものの境界を絶えず侵犯し、被占領者にプライヴェートな生を許さず、彼ら自身が自らの境界を画する権利を否定すること、それが占領の暴力の一つの本質、核心部分であるならば、その暴力の犠牲者であるヘイラに遺された最後の私的な世界、そこに秘められた「悲しみ」という私的感情までも白日の下に暴こうとするカメラマンのふるまいは紛れもなく占領者のそれに等しい。

岡真理「ガザに地下鉄が走る日」

絶滅収容所という,人間がただの類に還元され,その崇高さも尊厳もことごとく奪いつくされるという〈出来事〉,そしてそれを生きのびることさえもが暴力でしかないような〈出来事〉が,〈出来事〉の外部にいる者たちによって  まさに私たちが〈出来事〉の記憶に悩まされずに安心して生きられるように  人間の崇高な愛の讃歌として消費されるということ自体が,わたしには,人間が生きながらえるということの暴力性のグロテスクな戯画に思えてならない. 

そのような物語を欲しているのは私たち,〈出来事〉の外部にいる者たちである.私たちが生きのびるために.絶滅収容所を描きながら,それは絶滅収容所という暴力的な〈出来事〉の記憶を,他者と分有すべく語られているのではない.それはむしろ,その記憶を積極的に抑圧するための装置なのだ.

岡真理「記憶/物語」

ある民族の共同体の現実を、そのものの正当な文脈においてとらえることができないとしたら、それはきっとわたしたちを打つなにかとなってはね返ってくるだろう。わたしはグロテスクな文章といったが、それは他者の歴史を平然と図式で切り裂くあつかましさのことをいった。明快でもないものを記号化して、それを思弁の道具に利用することをいった。そういうことを他に対してしながらも、自らの歴史だけは、自らの現実だけは正当な文脈においてとらえることができるという保証はあるのだろうか。自らに対してだって、グロテスクになりうるのではないか。

藤本和子「砂漠の教室 イスラエル通信」

2023年10月25日

携帯のメモはどんどん溜まっていくけれど、ここに書くかどうかはまた別の話だ。

「この前ほんのちょい友達を車に乗せたら、友達とドライブするのってもしかしてめっちゃ楽しい!?ってなって、あなたとドライブしてー!と思った!」とメッセージが届く。これを愛と言わずして何と言う?

 

2023年10月16日

二日酔いで昼過ぎになっても動けない。気付いたら14時を回っていて、慌てて出かける準備をする。

土井玄臣のライブへ。開演時間に少し遅れて到着、最後列の端っこで見る。泣くもんかと思いながら、ダークナイトを聴いてやっぱり泣く。わかったつもりになんて全然なりたくないな悔しいから、でもわたしはこの人の歌がどうしてもわかる。

土井玄臣の音楽を初めて聴いた時の18歳の自分と今現在の28歳の自分、そんなに変わらないのかもと思うけど、自分の魂の輪郭を知りたくて言葉を探し続けている、本当にそれだけは諦めないでいる、この一点においてわたしは今の自分をまっすぐに選び取ることができる。

土井さんに日記を褒められて素直に嬉しい。

 

2023年10月24日

低空飛行の一週間。池間由布子のライブを見る。ほんの少しの軽さを持って、底まで降りていけたなら!

2023年10月8日

2023年10月4日

最近、朝起きた時に左胸の決まった場所が痛む。元々疲れると胸痛が出やすいけど、毎朝となると不安になる。そろそろ病院に行った方がいいかもしれないなと思いつつ、面倒でまだ何も調べてない。

友達を家に呼んでオセロとトランプとジェンガで遊ぶ。わたしはオセロが強い。わたしと友達がやるオセロを見ながら、こういうのは性格の悪さが出るねとちいさく呟く恋人に笑う。わたしはオセロが強くて性格が悪い。

 

2023年10月5日

用意した誕生日ケーキを食べ損ねたと友達からメッセージが届く。わたしも友達も毎年のように誕生日にパートナーと揉める。「自分を大事にするさ!最小単位を自分にすれば絶対成功なのに、パートナーまでを最小単位にしてしまう罠がそこかしこにありすぎるマジで」「愛やタイミングや期待や情けや、罠すぎ」「でもそうやって役割を全うすることから生じる暴力性に甘んじたくないから、どうにかして戦いたい」次から次へと届くメッセージを読みながら泣きたくなる。

マイブーム、干しあんず。大袋を買ってそればかり食べる。食わず嫌いだった頃は崎陽軒シウマイ弁当(大好き)に入った干しあんずも無視していた。わたしは食わず嫌いが本当に多くて、たぶんそれは食べ物が自分の身体に入っていくことを全然許していないからで、でも少しずつ受け入れられるようになってきたのか、今になってこれってもしかして美味しいのかも?と気付くことがかなりの頻度である。こうしてひとつずつ世界を受容していくんだねと干しあんずを食べながら話すわたしに、そうなんだ、とどうでもよさそうに相槌を打つ恋人。この人の良いところのひとつは、わたしの極端な食生活にほとんど関心がないところだと思う。

君島大空「no public sounds」ばかり聴く。

 

2023年10月6日

退勤後、そのまま実家に向かう。常磐線の北千住と綾瀬の間を走る景色を見ると、本当にたくさんのことを思い出す。

 

2023年10月7日

売野機子「インターネット・ラヴ!」が最高だったので、実家の自分の部屋に置いてあった「MAMA」を再読。きんいろ傷。

夜、恋人から電話。大丈夫か?と聞かれる。大丈夫だよと答える。わたしが大丈夫かどうかこうして確認してくれる人がいるのなら、大丈夫じゃないけどきっと大丈夫だなと思う。

2023年10月3日

秋最高。わたしの季節だ!

 

2023年9月25日

友達の家に遊びに行く。少しずつ自分と子どもを切り分けて考えられるようになってきたと話す友達、テーブルの上に太宰治人間失格」が置いてあって面白かった。太宰治の一番好きな作品は何?と聞かれて、「ダス・ゲマイネ」かなと答える。

この人はね、何か困り事があるといつまでも黙っているの、そういう時わたしは何も言わない方がいいのかなと思ったりもしたけれど、どうやら好きにしていいみたいって10年関係を続けてわかってきたよ、だから好きにしていようね、と友達は一歳の子どもに説明していて、子どもはよくわからないけどという顔をした後、友達にぴったりくっついてわたしの目を見てニコッと笑った。

 

2023年9月27日

太宰治のお気に入りの場所だった三鷹駅前の陸橋が今年中に取り壊されるらしいと恋人に教えてもらう。実はわたしも先月「斜陽」を読み返したばかりで、もしかして太宰治再考の機運?夕食後、缶ビールを片手に陸橋を見に行く。月の光が眩しい。

君島大空「no public sounds」を聴く。

 

2023年9月28日

サイゼリヤで本を読む。夜のファミレスを愛している。

自分自身の魂を起点とする共同体をどうにか形にしたいという気持ちがずっとあるけど、何をどうすればいいのかわからない。わたしはあなたと話がしたい。

7月から続く不調についてもようやく腑に落ちた。喪に服すために、死者の近くにいるために、わたしはわたしを閉じることがある。それならわたしはわたしのままで、この心身を引き受ける必要がある。

本を読むことでだいたいわたしは助かってきた。

 

2023年9月29日

月を眺めながらビールを飲む。

 

2023年10月1日

自転車に乗って散歩する。帰り道、カフェアリエに少しだけ寄る。

 

2023年10月2日

売野機子「インターネット・ラヴ!」最高。もう一度言おう、売野機子「インターネット・ラヴ!」最高。

カルディで買ったチュモッパの素を使っておにぎりを作る。美味しくて1.5合分の米をいっぺんに食べる。昨日は胃に固形物を入れる気分になれなかったのでほっとする。わたしの食事はかなりムラがある。

ファン・ジョンウン「百の影」が今月刊行予定とのこと。楽しみ。

2023年9月22日

2023年9月16日

頭の中が散らかって苦しい。過去の体験が何度もくり返し再生されて止まってくれないのでアーとかウーとか小さく声を出してやり過ごす、と思ったらいつの間にか気絶したように寝ている。自分の心身を操縦している実感がないまま時間が過ぎていくことに焦りを感じる。

SAKANA「Blind Moon」を聴く。大好きなアルバム。少しずつだけど音楽が聴けるようになってきた。

 

2023年9月17日

oono yuuki bandの新譜が本当に楽しみ。

自転車に乗る。久しぶりにカフェアリエへ。会いたかった人に会えると嬉しい。思ったより元気そうと言われる。

 

2023年9月18日

5時に起きて仕事。帰り道に新宿の紀伊国屋書店で本を何冊か買う。人文書のコーナーに平積みされていた「われらはすでに共にある:反トランス差別ブックレット」を手に取り、そこに掲載された山中千瀬「言葉がほしい」を読んで泣く。とても疲れていたので後日ちゃんと準備をしてから買おうと決めて店を出る。こういうことはよくある。

帰宅してビールを飲みながら冷奴を食べる。今年の夏もほとんど料理をしなかった。ケアとしての料理に必要以上に警戒しているんだと思う。

 

2023年9月19日

ビールを飲むためのグラスを新しく買う。今週末は麓健一のライブを見に行く。

 

2023年9月20日

思考促迫が続く。落ち着くのを待つ。

 

2023年9月21日

平岡直子のTwitterは最高だ。以下引用。

大森さんの歌集『てのひらを燃やす』のあとがきに〈人間にできる最も美しいことと最も醜いこと、そのどちらにも手が関わる〉という一文があり、わたしはむかしも今もこの文の意味がわからない。ふしぎな確信がある文なのにあまりに理解できないことがショックでかえって頭に残りつづけていたんだけど、今日、〈手〉とは関係性の器官なのだということを考えていてはじめて腑に落ちるところがあった。わたしにとってはわたしができる〈美しいこと〉と〈醜いこと〉はどちらも他者との関係性のなかにはないので、あの文を理解できないのは当たり前だったのだと思う。他方、いま現在の大森さんがどうかはわからないけど、少なくとも『てのひらを燃やす』は相聞歌集だから、あの文が〈重要なことすべてが他者との関係性のなかにある〉という宣言なのだとしたらそれはすごく筋が通っている。宣言しつつ、そのすべてを燃やしてみせる、というスタンスの歌集であることも。

たまらず大森静佳の歌集を本棚から引っ張り出す。平岡直子の大森静佳論が読みたい。どこかでやってくれないかな。

他人の文章を読んでいると、わたし自身の状態がどうであれ、あらゆることがただ続いていくんだなと思う。

2023年9月12日

朝から洗濯と少しだけ掃除。仕事は進まない。

 

わたしのこと見ていてほしいという感情を他人に向けることについてあまり躊躇しなくなった。

 

6年ぶり2回目の北海道。新千歳空港の情報量の多さに圧倒される。こんなにすごかったっけ?何もわからなくなって、なるべく早くこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいで、それでもしっかりホテルで食べるロイズの生チョコだけは買う。特急に乗るために南千歳まで出たけど、時間を間違えて一時間半ほど待機。閑散としたアウトレットでぼんやり過ごす。近くの薬局でサッポロクラシックを買って飲む。わたしの行動はほとんどが支離滅裂で、今回は軌道修正する人も近くにいないため、支離滅裂なまま旅が進行していく。ひとりで困るだけだから大丈夫。

 

友達の結婚式へ。高校生の頃に知り合って、会ったり会わなかったりしながらずっと大事に思っている人。

思い返すとわたしには自分がフェミニストになるきっかけが5回くらいあって、これからも何度もフェミニズムに出会い直すと思うんだけど、ほんとのほんとの始まりはどこだろうと考えたら、たぶん彼女と出会ったことだと思う。

 

函館へ向かう。佐藤泰志の出身地。ずっと行ってみたかった場所なので嬉しい。着いた頃にはもう外が暗くなっていて、函館駅前の夜に走る市電を見て少し泣く。

映画「きみの鳥はうたえる」で僕と静雄が待ち合わせた映画館、僕と佐知子がサンドイッチを食べた喫茶店、3人が相合傘をしたコンビニにも行けた。函館駅前のともえ大橋から見た函館山と函館湾がとても良かった。一時間くらい眺めていたと思う。潮風で身体がベタベタになる。

恋人と初めて会った日を思い出す。知り合った当時、彼は恋ヶ窪のアパートで友達とルームシェアをしていて、煙草を吸いながら煙がこっちに来ないようにサッと手で払って、ビールを全然美味しくなさそうに飲んで、佐藤泰志の小説のいろんな場面を集めたような人だなと思った。どんな人が好きですか?というわたしの質問に、奥行きがある人、と彼は答えた。

函館は景色がずっと青みがかっていた。函館空港から飛行機に乗って東京に帰る。帰宅後、すごく好きな場所だったと話すと、恋人は今度は一緒に行こうと笑った。彼にもあの青が見えるだろうか。

 

坂口恭平「幸福人フー」を読む。

2023年9月3日

突然甘酒が好きになる。匂いが苦手で一口も飲めなかったけど、今ならいけるかもと予感がして買ってみたら美味しい。毎朝冷やしたものを少しだけ飲む。たまにこういうイベントが発生すると自分の中に生活を感じて何となく安心する。

 

友達に連れられてフォレストアドベンチャーへ。怖かった。ハーネス装備だから安全と案内されたけど、あまりの足場の不安定さに怯える。待って!置いていかないで!と先へ行く友達に向かって叫びながら進む。友達笑って待ってくれる。途中からどうでもよくなってきて、もう落ちてもいいか……って思ってからが面白かった。

トレイルライドもやってみた。電動マウンテンバイクかっこいい。でこぼこの山道の中でひとりどんどん加速するのが楽しくて、スピード狂の自分を垣間見る。今後もし車を運転するなら人通りが少ない道に限定しようと改めて思う。

山が好きだな。自分に身体があることを信じられる。

 

わたしが実家で読んで忘れて帰った中井久夫の本を父親が見て、もう彼女の考えていることのほとんどがわからないんだろうなと言っていたと母親から聞く。

小さい頃から父親が買ってきた本は全部読んでいた。数ヶ月話さないことがあっても机の上に本が置いてあればそれを読んだ。

父親は10年くらい前に一度身体を壊したのをきっかけにナショナリズムと自己愛でぐしゃぐしゃになってしまったが、その隙間には今も子どもであるわたしへの思いやりがあり、わたしはずっと父親へ向ける感情をどう扱えばいいのかわからない。学生の頃、数学の教科書をさっと読み通してああこれはこうすればいいんだよと教えてくれた記憶の中の父親がいつもいて、この人に何も返せない、と思う。

 

ダイ・インについて調べる。

2023年8月28日

まだ本調子じゃない。でもまあいつもこんなものかという気もする。雑穀米のおにぎりと味噌汁を作って食べる。

 

友達から子どもの写真が送られてきて可愛い。一歳おめでとう。

 

二階堂奥歯の日記を読む。二階堂奥歯シモーヌ・ヴェイユを読んでいた。

身体性を持たない、現場を知らない、そう言われました。

その通りです。

私は大きな物語が終わってから生まれました。私が暮らすのは物語終演後のステージセットの中。私に役割はありません。

私の行為が全体に寄与することはありません。私の行為が外部から位置づけられることはありません。

どんな真剣な行為もまずパロディとして知りました。私の全ての思想行動はすでに誰かがどこかでやっていたことです。

存在価値を支える外部は最初からなかったのです。そんな私の存在を支えられるのは私と、私によって支えられている私的な価値体系・物語・信仰です。

その価値体系などがどれほど大きな規模のものであっても、それは私的なものでしかありません。

私が裏付けした私的な価値体系しか私を裏付けるものがないとき、その私の生死を超えてまでやらねばならないことの存在など、可能でしょうか。

苦しみながらそれでも生き延びて成し遂げるべきことを私は持っていません。

やりたいことがないわけではない。しかしそれを位置づけてくれる文脈はありません。

私の目標の根拠は自分自身なのです。

生きていく目標もありません(生きてさえいれば目標はありますが)。

遠くにある希望とか、理想とか、それは私を離れても存在しているのですか?

それは誰が支えているのですか?

神ですか?

神は誰が支えているのですか?

それでも、小さな小さな私的な物語を楽しみ、ささやかな信仰を支えにとりあえず明日は生きるだろう、明後日も。

そのように生きています。

私が死んだら悲しむ人がいて、私がいたらうれしいという人がいる、そういった私的な支え合いの中で生きています。

生きていたらやりたいことはたくさんあります。

でも生自体を支える根拠はありません。

私は自分の髪を自分で掴んで虚空の中に落ちていかないように支えているような気がします。小さな信仰だけがそれを可能にしているのです。

二階堂奥歯「八本脚の蝶」

私的な場所から始めるということ。

恋人と喧嘩した時に一度だけ、わたしの書いた日記を読んでほしい、感想は必要ない、わたしが何を考えているのかできる範囲で構わないから把握してほしい、とノートを渡したことがある。わたしはすぐこういうことをする。

ノートを渡した人はそんなこともあったねと数ヶ月前の出来事をすっかり忘れていたけど、ノートを受け取った人はその時に読んだ文章が面白かったみたいで、もっと何か書けばいいのにとずっと思っていたと酒に酔った勢いで言われた。びっくりしたけど嬉しかった。日記をまた書き始めたのはそんな理由もあったりする。

書いてみて気付いたのは、「わたしが何を考えているのかできる範囲で構わないから把握してほしい」という気持ちは、誰よりも自分自身に向かっている。あの時のわたしの行動は少しずれていた。わたしはわたしに説明するために日記を書く、まずはそこから始めるしかないんだと思う。

 

夏が終わる。今週末は友達に誘われてフォレストアドベンチャーへ。様々なアスレチックに翻弄される自分を想像して今から笑ってる。どうなるんだ。

2023年8月25日

日記を書こうという意識が頭の片隅にあると、日々の生活で生じる選択に自覚的になる気がする。

 

三日間の夏休み、山へ行く。恋人は車の運転が上手い。運転が上手な人ってこういうことを言うんだなと毎回新鮮に驚く。この人の前では絶対に運転したくないな。方向音痴な上にすぐ意識があちこちに飛ぶのでわたしが助手席でできることは何もない、けれどもただそこにいることは得意なので勝手に楽しい。

「この人と美しいものを見ている」という実感があれば他人と一緒にいられる。本当にそれだけでいい。人によっては迷惑だろうなと思う。

 

高松美咲「スキップとローファー」9巻を読む。人と人との感情のやり取りなんてグロテスクに決まってる、というかそうであってほしい、じゃなきゃわたしのこのわかり合えなさに対する諦めから出発する切実さを正当化できないとずっと思っていた。最初からわたしはひとつも諦めてなかったって今ならわかる。

 

最近買った本。

リディア・デイヴィス「分解する」

カミーユ・エマニュエル「跳ね返りとトラウマ そばにいるあなたも無傷ではない」

田村美由紀「口述筆記する文学 書くことの代行とジェンダー

 

少しずつ回復してきた。