2023年10月27日

現実で起きている出来事とそれを認識する自分との距離が適切に測れなくて苦しい。今わたしは苦しいということをちゃんと覚えていようと思う。

本を読む自分自身の特権を自覚しながら、それでも本を読む。疲れている。

連写された何十枚もの同じアングルの写真。そこに写るヘイラは、いずれも口元にうっすらと笑みを浮かべている。占領軍の検問のせいで路上で子を産み落とすことを余儀なくされ、生まれたばかりの赤ん坊を喪った母親に微笑みは似つかわしくない。「あの子は七ヵ月、私のお腹にいた。お乳を欲しがったけれど、あげることができなかった。あの子を空腹のまま逝かせてしまった……」と字幕で紹介されるヘイラ自身の言葉とも釣り合わない。ユダヤ人カメラマンはアラビア語の通訳を介して再三、ヘイラに笑わぬよう求めるが、向けられたレンズを前にした彼女は口元にかすかな笑みを浮かべるのをどうしてもやめなかった。いったいなぜ、ヘイラは微笑むのか?

(中略)

ヘイラは子宮というもっともプライヴェートな身体的トポスのなかで七ヵ月間、大切に守ってきたものを占領によって奪われた。失われた大切な命に対する悲しみ、彼女のもっとも内奥にある彼女自身の大切な気持ち、それだけが彼女に遺された最後の私的なるものであり、占領者に決して譲り渡せぬものだった。ヘイラの悲しみの表情を撮りたいというイスラエルのカメラマンの欲望がヒューマニズムに根差したものであることは疑い得ない。しかし、私的世界とそうでないものの境界を絶えず侵犯し、被占領者にプライヴェートな生を許さず、彼ら自身が自らの境界を画する権利を否定すること、それが占領の暴力の一つの本質、核心部分であるならば、その暴力の犠牲者であるヘイラに遺された最後の私的な世界、そこに秘められた「悲しみ」という私的感情までも白日の下に暴こうとするカメラマンのふるまいは紛れもなく占領者のそれに等しい。

岡真理「ガザに地下鉄が走る日」

絶滅収容所という,人間がただの類に還元され,その崇高さも尊厳もことごとく奪いつくされるという〈出来事〉,そしてそれを生きのびることさえもが暴力でしかないような〈出来事〉が,〈出来事〉の外部にいる者たちによって  まさに私たちが〈出来事〉の記憶に悩まされずに安心して生きられるように  人間の崇高な愛の讃歌として消費されるということ自体が,わたしには,人間が生きながらえるということの暴力性のグロテスクな戯画に思えてならない. 

そのような物語を欲しているのは私たち,〈出来事〉の外部にいる者たちである.私たちが生きのびるために.絶滅収容所を描きながら,それは絶滅収容所という暴力的な〈出来事〉の記憶を,他者と分有すべく語られているのではない.それはむしろ,その記憶を積極的に抑圧するための装置なのだ.

岡真理「記憶/物語」

ある民族の共同体の現実を、そのものの正当な文脈においてとらえることができないとしたら、それはきっとわたしたちを打つなにかとなってはね返ってくるだろう。わたしはグロテスクな文章といったが、それは他者の歴史を平然と図式で切り裂くあつかましさのことをいった。明快でもないものを記号化して、それを思弁の道具に利用することをいった。そういうことを他に対してしながらも、自らの歴史だけは、自らの現実だけは正当な文脈においてとらえることができるという保証はあるのだろうか。自らに対してだって、グロテスクになりうるのではないか。

藤本和子「砂漠の教室 イスラエル通信」