まだ本調子じゃない。でもまあいつもこんなものかという気もする。雑穀米のおにぎりと味噌汁を作って食べる。
友達から子どもの写真が送られてきて可愛い。一歳おめでとう。
二階堂奥歯の日記を読む。二階堂奥歯もシモーヌ・ヴェイユを読んでいた。
身体性を持たない、現場を知らない、そう言われました。
その通りです。
私は大きな物語が終わってから生まれました。私が暮らすのは物語終演後のステージセットの中。私に役割はありません。
私の行為が全体に寄与することはありません。私の行為が外部から位置づけられることはありません。
どんな真剣な行為もまずパロディとして知りました。私の全ての思想行動はすでに誰かがどこかでやっていたことです。
存在価値を支える外部は最初からなかったのです。そんな私の存在を支えられるのは私と、私によって支えられている私的な価値体系・物語・信仰です。
その価値体系などがどれほど大きな規模のものであっても、それは私的なものでしかありません。
私が裏付けした私的な価値体系しか私を裏付けるものがないとき、その私の生死を超えてまでやらねばならないことの存在など、可能でしょうか。
苦しみながらそれでも生き延びて成し遂げるべきことを私は持っていません。
やりたいことがないわけではない。しかしそれを位置づけてくれる文脈はありません。
私の目標の根拠は自分自身なのです。
生きていく目標もありません(生きてさえいれば目標はありますが)。
遠くにある希望とか、理想とか、それは私を離れても存在しているのですか?
それは誰が支えているのですか?
神ですか?
神は誰が支えているのですか?
それでも、小さな小さな私的な物語を楽しみ、ささやかな信仰を支えにとりあえず明日は生きるだろう、明後日も。
そのように生きています。
私が死んだら悲しむ人がいて、私がいたらうれしいという人がいる、そういった私的な支え合いの中で生きています。
生きていたらやりたいことはたくさんあります。
でも生自体を支える根拠はありません。
私は自分の髪を自分で掴んで虚空の中に落ちていかないように支えているような気がします。小さな信仰だけがそれを可能にしているのです。
二階堂奥歯「八本脚の蝶」
私的な場所から始めるということ。
恋人と喧嘩した時に一度だけ、わたしの書いた日記を読んでほしい、感想は必要ない、わたしが何を考えているのかできる範囲で構わないから把握してほしい、とノートを渡したことがある。わたしはすぐこういうことをする。
ノートを渡した人はそんなこともあったねと数ヶ月前の出来事をすっかり忘れていたけど、ノートを受け取った人はその時に読んだ文章が面白かったみたいで、もっと何か書けばいいのにとずっと思っていたと酒に酔った勢いで言われた。びっくりしたけど嬉しかった。日記をまた書き始めたのはそんな理由もあったりする。
書いてみて気付いたのは、「わたしが何を考えているのかできる範囲で構わないから把握してほしい」という気持ちは、誰よりも自分自身に向かっている。あの時のわたしの行動は少しずれていた。わたしはわたしに説明するために日記を書く、まずはそこから始めるしかないんだと思う。
夏が終わる。今週末は友達に誘われてフォレストアドベンチャーへ。様々なアスレチックに翻弄される自分を想像して今から笑ってる。どうなるんだ。