2024年1月11日
久しぶりに渋谷へ。ものすごく道に迷ってなんかちょっと笑ってしまう。そんなに好きじゃないライブを見て落ち込む。帰り道、友達から電話がある。高円寺駅周辺を歩きながら2時間ほど話す。
2024年1月12日
J・D・サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」を読む。今回は新潮文庫の野崎孝訳ではなく、河出文庫の柴田元幸訳を。シーモアとミュリエルの関係を再認識する。会話の隙間にたくさんの感情がある。それを見つけられるかどうかは、これまでの自分がどのくらい目の前の相手と話してきたかで変わってくるのかもしれない。「エズメに、愛と悲惨をこめて」に胸打たれる。
「あなた忘れないでくださる、私のために小説を書いてくださること?」と彼女は訊いた。「全面的に私一人のためでなくてもいいのよ。なんなら 」
忘れる可能性は万が一にもありえないと私は答えた。誰かのために小説を書いたことは一度もないけれど、いまはまさにそれに取りかかるのにうってつけの時機だと思うと私は言った。
「エズメに、愛と悲惨をこめて」
2024年1月13日
記録なし。
2024年1月14日
記録なし。
2024年1月15日
尹雄大とイリナ・グリゴレの往復書簡「ままならない私たち 生きづらさを身体から考える」を読む。サリンジャーを読み、戦争とPTSDについて考える必要があると思い、ハン・ガン「少年が来る」を再読しようかというタイミングで。
https://daiwa-log.com/magazine/yun_irina/life10/
2024年1月16日
全員倒す、全員倒す、全員倒すと唱えながらサリンジャーを読む。20歳くらいから今までずっとフラニーとズーイのふたりに対して近しい感情を抱いていたけど、最近はシーモアとバディの言いたいことがよくわかる。これはきっと時間の経過でしか生まれない心の動きだ。こういう気付きがあるからあの時死ななくて良かったなと思うし、それと同時にシーモアはもう死んでいることを決定的に思う。バディがシーモアについて語る際にキルケゴールを引用していて胸が詰まる。大学時代、聖愚者という言葉を知った時に生まれた開き直りは今もお守りになっていて(これはもう信仰とも言えるんじゃないか?)、どうにかこうしてここにいる。バディもきっとそうなんだろう。彼にとって詩人であるということは、もうここにはいないシーモアについて語ること、語ることによってシーモアと一緒に生きることなんだと思う。
2024年1月17日
精神の調子の崩れ始めを感じる。春が嫌いだ。
2024年1月18日
健康診断。病院内でピアスを片方失くす。これと決めたものを毎日身に着けることで心の均衡を保っているので、もうどうしようもなく動揺する。健康診断後は会社に直行の予定だったけど、頭の中が騒がしくて苦しい。失くしたピアスのことばかり考えてしまう。諦めて出社前にピアスを買った店に行って同じものを買う。すぐに身に着ける。こういう自分のままならなさに毎日疲れるけど、多少無理をしてでもわたしはわたしをやる。退勤後、友達と中華料理屋でビールを飲む。
2024年1月19日
夕食後、コンビニまでふたりで歩く。冷たい風を受けながら、もう春の匂いが混じっているねと少し嬉しそうな恋人。冬の終わりを柔らかく受け止める人の隣で自身の精神の変調を予感しながら、そうだねとひとこと返事をする。
2024年1月20日
本屋に行って本を買う。
ジュディス・バトラー「自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判」
蟹の親子「脳のお休み」
石岡丈昇「タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー」
石岡丈昇「ローカルボクサーと貧困世界 マニラのボクシングジムにみる身体文化」