2023年3月

春になると体調を崩す。精神の不調にともなって、わたしの言葉を求める気持ちは強くなる。毎年のことだけど、自分のことだけど、やってられない。

 

ここ数年はノートに日記を書いていた。頑なに、個人的なものとして日記を書いていた。わたしは正直に日記を書きたかった。本当のことを書きたかった。けれど、完全に閉じられた場所で書かれた日記が正直だとは限らない。本当のことだとは限らない。わたしはわたしのために事実を事実として書けないことがある。それがわかったからノートに日記を書いてみてよかった。

 

エゴン・シーレ展を見に行く。良かった。

奔放な人間関係について言及されがちだけど、もしかしてシーレ、人間関係を本気でやりたかっただけじゃないか?わたしには真面目な人に見えた。

自分の身体性が許せないからこその、身体を描くことに対する執着を感じた。じっと自分の手のひらを見つめたことのある人の作品だと思った。2017年に見たジャコメッティ展を少し思い出した。

人間が何かに執着する様を目撃したいがためにわたしは作品を見る。

 

新宿から特急あずさに乗って松本に行く。片道二時間半、6620円。乗車前に浮かれてあれやこれやと買い込んだけど、思ったより揺れが強くて途中で酔いそうになり、飲酒を諦める。また乗る機会があったら350ml缶一本だけにしよう。松本にふたりで行くのは二回目。一年ぶりの松本はやっぱり良いところだった。

心の中にたくさんの小さな部屋を作って、その時々で生じた感情をひとつひとつ入れていく。大事にしまっておく。そうすることでわたしは自分を保ってきた、と思う。

最近、でもこれは入らないかもしれないな、だってわたしの作る部屋が小さすぎる。と感じることが増えた。山を見るとき、山を歩くとき、誰もいない静かな道を自転車で走るとき、ハンドルを握った手が冷たい空気に触れるとき、わたしの感情はどんどん拡大する。とても収まらない。もっと良いやり方があるような気がする。見つけたい。

広々とした場所へ連れて行ってくれる、わたし自身を確定しない人と一緒にいることが、こうした考え方の変化に繋がっていく。はっきりさせない、決定しない。そういうところにもタフさは必要だと気付く。

あらゆることを怖がっていつも寂しいと泣くわたしを、彼はわからないと言う。わからないまま隣にいる難しさを引き受けてくれている。

 

初めてメルカリを利用する。靴を売ろうと思ったからだ。

履き古した靴はいつもなら捨ててしまうけど、アドバイスされるままに出品してみたら一万円で売れた。登山でも使った靴だからだいぶソールが減っていたので不当な取引だと思われたらどうしよう、と購入者のアカウントの様子を見ていたら(わたしはこういう陰湿なところがある)、1.5倍の値段で再出品されていて笑ってしまった。商品の状態の説明が「やや傷や汚れあり」から「目立った傷や汚れなし」に変更されていた。

メルカリ、本気で取り組んだら心が壊れる予感がする。わたしは何事も本気でやりたい性分なので合わないと思う。一度手放したらもう責任はないと思ってしまえば、フリマサイトでの取引なんてどうってことないんだろう。やってみてわかったけど、手放した責任みたいなものは自分の中に残る。あの靴はこれからいろんな場所に行くのだろうか。始めたのはわたし、と思う。気が重くなる。メルカリをやめろ。

 

奥田直美・奥田順平「さみしさは彼方 カライモブックスを生きる」を読む。

ずっと熊本に行きたいと思っている。いつ行けるだろう。飛行機のチケットの値段を毎日確認する。熊本に行きたい。水俣に行きたい。天草に行きたい。不知火海が見たい。

行きたい、と思い続けているうちに自分の中の熊本が水俣が天草が不知火海がただただ美しいものになっている気がして罪悪感がある。現実があると思う。現実として向き合いたい。

今年の初め、出張で久しぶりに長崎に行けて嬉しかった。本当に嬉しかった。九州がいつも心の中にある。