2020年6月

自分がどういう状態なのか知るのがいちばん怖い。あっちもこっちもエラー、エラー、エラーの連続で困ってしまう。現状をできるだけ冷静に受け止めるためにはどうすればいいんだろうと考えて出てきた答えは自分について書くということだった。最近は好きな食べ物を人に言えるようにもなったし。ずっと言えなかったわからなかったから。

というわけで日記を書く。やだー

・久しぶりに友達と会う。家で餃子を作って食べようという話になり、じゃあお酒買うねと発泡酒350mlの6本セットを駅前のスーパーでふたつ購入。きっと道に迷うだろうなと思いながらちゃんと道に迷う。困って友達に電話をしたら真逆の方向を歩いていたらしい。腕が発泡酒の重みに耐えきれずその場に崩れ落ちる。缶あちこちに転がる。迎えに来てもらった友達にしっかり見られる。6本セットをひとつずつ持って並んで歩く。

・電車に乗って海を見に行く。泣く。

・酔っ払う。人見知りで自分のこと全然話さないくせに寂しがりで狂ってるよと言われる。

・初対面の人と少し話す。わたしほんとにちょっとすごく……暗くて……とポツリ言ったらそりゃあそうでしょうとはっきり返されて少し笑う。初対面の人に言われることってあるんだ。

・夜中に目が覚めて誰もわたしの感情を拾ってくれないじゃんかって泣くのももう飽きたな。

宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」が間違いなく必要な本で驚く。今年の初めに読んだ岡真理「彼女の正しい名前とは何か」にも触れていて、わたしが知りたいのはこのあたりなんだろうな、点と点を勝手に線で繋ぐ。プリーモ・レーヴィ「溺れるものと救われるもの」を読み始めた。あとパウル・ツェランの詩をじっと見てる。

もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした。  しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました  すべての出来事に「豊かにされて」。

それらの年月、そしてそれからあとも、わたしはこの言葉によって詩を書くことを試みました  語るために、自分を方向づけるために、自分の居場所を知り、自分がどこへ向かうのかを知るために。自分に現実を設けるために。

・わたしはいつだって言葉を頼りにしている。頼りにしすぎる。

・自分自身のさみしい気持ちを起点にして言葉を探すことに罪悪感がある。でもわたし以外にわたしの感情を誰がやるんだ?

・自己開示って必要なのかな。自分の話をするのがとにかく苦手で、でも誰かの話を聞くことならできるかもしれないと相手の目の前に立って静かに待つけれど、もしかしたらそれって相手をただただ消費していただけで、知らず知らずのうちに許されてきたのかな。ずっとわかっていなかったのかな。わからない。

・暴力について考える。