2024年3月22日

精神の調子が悪いと相手の些細なひとことで激昂してしまう。「何を言うか」と「何を言わないか」を基準にして目の前の人間をジャッジするわたしは、なんてことない発言から相手の浅薄さを感じ取り、そんなことをわたしに向かって言ってしまえる、つまりこれはわたし自身に対する軽視であると一切の迷いなく決定する。全部自分の認知の歪みなのにね。相手がどんな気持ちで何を言おうがわたしはわたしのままなのに、どうしても確信が持てなくなる。自他境界が曖昧になっている。大丈夫、ちゃんとわかる。でも上手く切り替えられない。今言ったことを撤回してほしいと文字通り泣き喚くわたしを見て、君は本当に生きにくそうだと彼は言う。何ひとつ許せないんだねと彼は言う。そこまでわかっているならほんとうの言葉だけをわたしに見せてくれよ。わたしはあなたの真ん中にあるものしか欲しくないんだよ。台所の換気扇の前に立って煙草を吸う彼を眺めながら声を出して泣く。

わたしは全然大丈夫なんかじゃないです。暴力を介してでしか他者と接続できないんです。慌てて頓服薬を飲み、電源が切れたようにパタリと眠る。翌日、一日寝込む。

2024年2月22日

症状が顕著に現れるようになったのは大学生の頃だろうか。名前を付けるならたぶん会食恐怖症だと思うんだけど、対面で食事をする際に手が震えるので、ビールをジョッキで1、2杯飲んでからでないと箸や皿に触ることができなかった。だんだん自分の意思とは関係なく起こる手の震えが煩わしくなって(精神的な要因による身体症状として受け止めることが当時の自分には困難だった。いつだってわたしは好きな人たちと食事がしたかった。)、大勢の人がいる場では食事を放棄して酒を飲んでばかりいた。酔っ払ってしまえば手が震えているかどうかなんてわからない。自分の身体性を無視することでどうにかその場に繋がろうとしていた。

はっきりとそれについて話をしたことは一度もないけど、哲学科で知り合った友達もおそらくその感じがあって、でも彼女は決して自分の身体を手放さなかった。わたしの知る限りで彼女が人前で食事をすることは一切なく、水を飲むことすらも拒否していた。彼女の頑なに伏せられた目を最近よく思い出す。わたしはその目を今も美しいと思う。

哲学科の必修科目である論理学が全然できなくて、試験前はいつもその友達に付きっきりで教えてもらっていた。夜の大学、閉館前の人がほとんどいない地下の食堂。あなたは問題を自分で解決する能力がちゃんとあるのに、視野が狭くて気が短くてすぐに話の本質を要求するから上手く行かない、もう少し落ち着いて時間をかけて考えてみてと言われて、おかしいな、人生みたいだなと少し泣いたことを思い出す。彼女の前でわたしはいつも遠慮なく泣いた。もう随分長い間会えていない。

三宅唱「夜明けのすべて」を観た。

今も緊張が強くなると手が震える。でも何でだろう、手が震える度に引き起こされていた足元からガラガラと崩れ落ちていくような焦燥感はもうほとんどない。ままならなさをそのままに、自分の身体性を信じるということ。どうやらわたしはもう少し自分の身体に近付きたいと思っているらしい。

縄跳びとミット打ちの練習を始めた。夜の公園で淡々とやる。たまにジョギングもする。友達に報告したら、大丈夫なの?と若干ビビりながらも、あなたの精神とボクシングってかなり親和性高いのでは……と言ってくれてなんか良かった。

2024年1月20日

2024年1月11日

久しぶりに渋谷へ。ものすごく道に迷ってなんかちょっと笑ってしまう。そんなに好きじゃないライブを見て落ち込む。帰り道、友達から電話がある。高円寺駅周辺を歩きながら2時間ほど話す。

 

2024年1月12日

J・D・サリンジャーナイン・ストーリーズ」を読む。今回は新潮文庫野崎孝訳ではなく、河出文庫柴田元幸訳を。シーモアとミュリエルの関係を再認識する。会話の隙間にたくさんの感情がある。それを見つけられるかどうかは、これまでの自分がどのくらい目の前の相手と話してきたかで変わってくるのかもしれない。「エズメに、愛と悲惨をこめて」に胸打たれる。

「あなた忘れないでくださる、私のために小説を書いてくださること?」と彼女は訊いた。「全面的に私一人のためでなくてもいいのよ。なんなら  

忘れる可能性は万が一にもありえないと私は答えた。誰かのために小説を書いたことは一度もないけれど、いまはまさにそれに取りかかるのにうってつけの時機だと思うと私は言った。

「エズメに、愛と悲惨をこめて」

 

2024年1月13日

記録なし。

 

2024年1月14日

記録なし。

 

2024年1月15日

雄大とイリナ・グリゴレの往復書簡「ままならない私たち 生きづらさを身体から考える」を読む。サリンジャーを読み、戦争とPTSDについて考える必要があると思い、ハン・ガン「少年が来る」を再読しようかというタイミングで。

https://daiwa-log.com/magazine/yun_irina/life10/

 

2024年1月16日

全員倒す、全員倒す、全員倒すと唱えながらサリンジャーを読む。20歳くらいから今までずっとフラニーとズーイのふたりに対して近しい感情を抱いていたけど、最近はシーモアとバディの言いたいことがよくわかる。これはきっと時間の経過でしか生まれない心の動きだ。こういう気付きがあるからあの時死ななくて良かったなと思うし、それと同時にシーモアはもう死んでいることを決定的に思う。バディがシーモアについて語る際にキルケゴールを引用していて胸が詰まる。大学時代、聖愚者という言葉を知った時に生まれた開き直りは今もお守りになっていて(これはもう信仰とも言えるんじゃないか?)、どうにかこうしてここにいる。バディもきっとそうなんだろう。彼にとって詩人であるということは、もうここにはいないシーモアについて語ること、語ることによってシーモアと一緒に生きることなんだと思う。

 

2024年1月17日

精神の調子の崩れ始めを感じる。春が嫌いだ。

 

2024年1月18日

健康診断。病院内でピアスを片方失くす。これと決めたものを毎日身に着けることで心の均衡を保っているので、もうどうしようもなく動揺する。健康診断後は会社に直行の予定だったけど、頭の中が騒がしくて苦しい。失くしたピアスのことばかり考えてしまう。諦めて出社前にピアスを買った店に行って同じものを買う。すぐに身に着ける。こういう自分のままならなさに毎日疲れるけど、多少無理をしてでもわたしはわたしをやる。退勤後、友達と中華料理屋でビールを飲む。

 

2024年1月19日

夕食後、コンビニまでふたりで歩く。冷たい風を受けながら、もう春の匂いが混じっているねと少し嬉しそうな恋人。冬の終わりを柔らかく受け止める人の隣で自身の精神の変調を予感しながら、そうだねとひとこと返事をする。

 

2024年1月20日

本屋に行って本を買う。

ジュディス・バトラー「自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判」

蟹の親子「脳のお休み」

石岡丈昇「タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー」

石岡丈昇「ローカルボクサーと貧困世界 マニラのボクシングジムにみる身体文化」

2024年1月10日

2024年1月1日

今年も会いたい人に会いに行く一年がいい。

今年一冊目は岡真理「ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義」。

 

2024年1月2日

疲労感。インターネットから離れる。

友達から連絡がある。子どもの寝かしつけに時間がかかるようになってきたと話す友達。毎日儀式のように覚えている人間の名前を全員呼んでから眠るらしい。わたしも眠れない時に好きな人たちをひとりずつ思い浮かべるから気持ちがわかる。忘れたくないよね。

 

2024年1月3日

ずっと心がざわついている。何をすればいいのかわからない。身体を動かしていないのにへとへとでどうにもならず、色々諦めてベッドに横になる。毛布にくるまって目の前の本棚をしばらく眺めていると、何となく起き上がる気分になる。ベッドの隣に本棚があると良い。とりあえず映画を観てみる。Amazon Prime Videoにアキ・カウリスマキ作品がある。ジャン=ピエール・レオ、本当に大好き。トリュフォーアントワーヌ・ドワネルシリーズしか知らなかったけど、誰が撮ってもジャン=ピエール・レオってこういう感じなんだろうか。間が悪くて、思い込みが激しくて、事故のように恋に落ちて周囲の人間を振り回す。他人事じゃない。

深夜2時を過ぎても恋人が帰ってこない。心配になってメッセージを送ると、終電に乗れなかったと電話がある。さっさと寝る。

 

2024年1月4日

昼過ぎに起きる。芥見下々「呪術廻戦」25巻を買う。以前Twitterに「呪術廻戦、あなたの魂のかたちをわたしに教えてくださいって話ですか?」と書いたけど、25巻を読んでいよいよ確信する。呪術廻戦はあなたの魂のかたちをわたしに教えてくださいという話。

 

2024年1月5日

早起きして朝から友達と友達の子どもと遊ぶ。もうすぐ1歳半になる子どもはわたしにいろんなことを教えてくれる。

もうずっと渦中にいる、もらったものと同じくらいを返せているかわからない、遅くなるかもしれないけど返せる時に返すね、何かあったらいつでも言ってねと友達に言われる。そんなの全然、本当に全然大丈夫なんだよと泣きそうになる。

世の中に対して言いたいことがあるのは世界に対する責任だから、上手く言えなくても言いたいことがあるという状態を持ち続けることが生きていく上で必要なのではないかという話をする。昨年末に読んだフォークナーのノーベル文学賞授賞スピーチを思い出す。

 

2024年1月6日

昼過ぎに起きる。さすがに寝てばかりじゃない?と恋人に言われて笑う。新宿の紀伊国屋書店で本を買う。

 

2024年1月7日

昼過ぎに起きる。カフェアリエへ。特に何か話すわけでもない、カウンターに座っているだけで楽しい。

今度はわたしが終電に乗れない。タクシーは具合が悪くなりそうだから自転車を借りようとするけど、酔っ払ってiPhoneの操作ができない。まあいいかと開き直って歩く、時々走る、目に映るものすべてが眩しく見える。愛ある方向へ進みたいと強く思う。

 

2024年1月8日

昼過ぎに起きる。友達から家に来ないかと連絡が来るけど、外に出る気分になれなくてまた今度と返信。夜中の3時までスイカゲーム。夢中。

 

2024年1月9日

イカゲーム。

 

2024年1月10日

イカゲーム……。

2023年12月29日

年末年始は毎日5km走ると今決めた。

 

2023年12月22日

ウィリアム・フォークナー「野生の棕櫚」を読む。面白い。

 

2023年12月23日

新宿PIT INで池間由布子と無労村のライブを見る。誰かを羨ましいと思うことってあんまりないけど、池間由布子は初めてその姿を見た時からずっと羨ましい。まいそうを聴いて、身体は確かに生活の中にあって、それでもこんなにもシームレスに死者と接続できるのか、と思う。彼女の歌は血の匂いがする。

 

2023年12月24日

恋人と喧嘩する。

 

2023年12月25日

フォークナーを読んで過ごすクリスマス。帰宅後、恋人と鍋を食べる。

「あのね。すべての日を新婚旅行にするのよ  いつもずっと。永遠に、二人のどちらかが死ぬまでいつまでも。ほかの状態はだめなのよ。天国か、それとも地獄のどちらかよ  その中間の浄罪界なんかにぬくぬくと居座って、善良な行為や忍耐や屈辱や悔い改めがくるのを待ってなんかいられないのよ、わたしたちはね」

「すると、君が信じているのは、信頼してるのは、ぼくじゃないんだね、愛なんだね」彼女は彼を見やった、「ぼくばかりじゃない、どんな男も信じないわけだ」

「ええ、愛なのよ。愛は二人の男女の間で死にたえるものだなんて言うけど、あれは間違いだわ。愛は死なないのよ。ただ立ち去るだけ  もしその人間がそれに値しないときは消え去るだけだわ。愛は死なないのよ、死ぬのは人間のほうよ、愛は大きな海みたいなものよ  、もし人間がそれに値しなくて、くさい臭いをだしはじめると、どこかの岸に吐き出して死ぬままにさせるのよ。人は誰だって死ぬわ、でもあたしは大きな海のなかで溺れ死にたいわ、人っ気もない浜に打ち上げられて陽乾しにされて汚いしみになって、墓碑銘は名もなしに、これであったとだけで終わるなんていや!」

ウィリアム・フォークナー「野生の棕櫚」

 

2023年12月26日

友達の家で仕事をする。友達と友達の子どもとお昼ご飯。食事中に子どもが手を伸ばして、てて、と言う。はいはいと求められるままに手を繋ぐ友達に静かに感動していると、こっちにもてて、と言ってくる。わたしとも手を繋ぎたいらしい。戸惑いながら子どもの手を取る。3人で手を繋ぐ謎の数秒間が生まれる。一緒にご飯食べて楽しいねって気持ちを伝えたいんだねと友達が笑う。

神保町視聴室で大野悠紀のライブを見る。夜、火、川、光の明滅、時間と距離。あの時聞こえなかった声も、歌を歌えばもう一度拾いに行けるかもしれない。

 

2023年12月27日

阿佐ヶ谷TABASAで高橋翔のライブを見る。過去と現在が混ざった22曲、喉を痛めながら最後まで歌う。終演後、高橋さんからセットリストが印刷された紙をもらう。嬉しい。わたしのロックスター!「わたしの怒りとは」という曲が良かった。

 

2023年12月28日

退勤後、恋人と焼肉を食べる。昨年末はふたりとも体調を崩していたから、今年は楽しく年末年始を過ごせるといい。

2023年12月18日

2023年12月9日

実家へ。松戸のくまざわ書店は良い本屋だな。棚を眺めると背筋が伸びる。リニューアルした岩波書店「世界」を買う。

中村佑子と斎藤真理子のトークイベントのアーカイブ配信を視聴。質疑応答、質問者の話し方にあれ?と引っかかって聞いていたら上野千鶴子。会場に行かなかったことを少し後悔。ケアする主体としての自己を語る困難について、森崎和江を引用しながら「言葉を使ってください」と呼びかける上野千鶴子に対して、「体験が先に来てその後生活が続くので、言語化する契機がないままでいる。(言葉に)できませんでした、できませんでした、と言う他ない」と答える斎藤真理子。「次を書きます」と答える中村佑子。語れなさもそのまま言葉にして、自分のものとして引き受ける。誠実な態度だ。

文章を書く女が一番かっこいい。これはわたしが自分自身にかけた呪いであり、生き延びるための戦略でもある。

 

2023年12月10日

最近、いつも以上に電車に乗れない。乗り遅れる、乗り過ごす、逆方向に乗ったことにしばらく気付かない、駅構内で迷う、毎日のように間違える。苦しいんだと思う。

 

2023年12月14日

職場の忘年会で10万円分のカタログギフトが当たったよと興奮した様子で恋人が帰宅。唐突で笑ってしまう。あんなに行きたくないとごねていたのに、彼の何だかんだで良い思いをするところを素晴らしいと思う。バルミューダのオーブントースターをリクエスト。わたしの家はオーブントースターがない。

 

2023年12月15日

前回の日記を読み返しながらケアについて考える。

ケアする/されるの渦中にある時、ケアの対象である相手と自分との境界が曖昧になって、相手の身体と精神の状態にシンクロしようと躍起になっていることに気付く。わたしは誰かを助けることが怖い、一度あなたを助けますと決めたらあなたがいる場所へ自分も行こうとするから。目の前の相手に対する感情を最大出力する手段としての移動、自分にできることはそれしかないと思っているから。たぶんそんなことはなくて、自分の「今・ここ」を手放さなくても相手の「今・ここ」にアクセスできるはず。その方が自分も相手も負担が少ない、頭では理解できる、でもわたしににはすごく難しいことのように思える。

体力がないと優しくなれないねと言って毎日ジムに通う恋人。説得力がある。今のわたしに必要なのは身体的強度を上げること?

 

2023年12月16日

芥見下々「呪術廻戦」面白い。

 

2023年12月17日

芥見下々「呪術廻戦」面白い。

 

2023年12月18日

少し前に友達の家で遊んだブロックスが面白くて自分も欲しくなって購入。2人用は小さくて持ち運びがしやすいから、いろんな場所に持って行っていろんな人とやってみたい。みんな(みんな?)、わたしと一緒にブロックスやろう。

2023年12月3日

2023年11月18日

新宿の紀伊国屋書店で中村佑子「わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅」を買う。

好きな人たちに会えて楽しい一日。調子に乗って飲み過ぎる。

 

2023年11月19日

出張1日目。早朝から移動。少しだけ寄り道して天神のジュンク堂書店と本のあるところ ajiroへ。アン・ボイヤー「アンダイング 病を生きる女たちと生きのびられなかった女たちに捧ぐ抵抗の詩学」を買う。

 

2023年11月20日

出張2日目。いろんなことが心配になって泣く。こういう時は何か食べた方がいいのだけど、徒歩5分の距離にあるファミレスにどうしても行くことができない。恋人に電話すると真っ先にご飯は食べたのかと確認されてやっぱりそうだよねと思う。わたしの切迫した感情をあえて100パーセントで受け止めようとしない彼の態度を寂しいと思うこともあるけれど、以前よりずっと理解できる。10分ほどで電話を終える。部屋の窓から見える景色をしばらく眺めて、ファミレスに行くために上着を手に取る。

 

2023年11月21日

出張3日目。九州の山と海は迫ってくる感じがあまりなく、ただそこにある。

 

2023年11月22日

強い胸の痛みで目が覚める。起床時の胸痛は頻繁にあるけど(大丈夫なのか?)、これまでにない痛みで動けなくてパニックになる。胸が痛いと泣きながら隣で寝ている人を起こしたら、出張続きで疲れたねと毛布でぐるぐる巻きにされる。毛布でぐるぐる巻きにされている状況に笑って少し落ち着く。どうにか起き出して休み休み仕事。午後も何となく調子が悪くて半休を取って寝る。日が落ちる頃、恐る恐る起き上がると痛くない。嬉しくなってミートソースを作る。

 

2023年11月24日

月島でもんじゃを食べる。川を眺める。

 

2023年11月25日

SALOMON XT-4 OGを買う。嬉しい。SALOMONの靴が大好き。かっこいい靴を手に入れると外に出てみようかなという気持ちになる。

 

2023年11月26日

友達と山に登る。昼を過ぎても気温が上がらず、生命維持の危機を感じる。周りをよく見るとダウンジャケットを着ている人ばかりで、どうしてわたしはダウンジャケットを着ていないんだろうと思う。わたしは自分の愚かなところを結構許すけど、山でそういう感じを出すと生死の問題になってくる。冷たい風に正面から当たりながらほとんど意地になって歩く。無事に下山、八王子ラーメンを食べて帰る。

 

2023年11月27日

久しぶりにふたりで遠出、恋人の運転で松本へ。高速道路のサービスエリアで食べるラーメンの輝きよ。八王子ラーメンを食べながら、そういえば昨日も八王子ラーメンを食べたなと気付く。許す。

夜中に恋人が発熱。持ち合わせの解熱薬とそのへんで買ったポカリスウェットと栄養ドリンクを渡す。心配で眠れない。朝になっても熱が下がらず、インフルエンザかもしれないということで早めの帰宅を目指す。解熱薬の効果があるうちにと高速道路をガンガン飛ばす人の隣で、わたしが運転できたらこういう時に助けることができるのにね、ペーパードライバー講習受けに行こうかな?と言ったら、そっちの方が心配!と即座に却下される。まあそれはそうなんだけど、やっぱりそのうち本当に運転の練習をしよう、わたしも大切な人を助けに行くための移動手段が欲しいから。

 

2023年11月28日

予想通りインフルエンザと診断される。うどんと野菜スープを作って食べる。体調が悪い人が近くにいると、自然と自分の食事も胃腸に負担のないものになる。わたしも数日したら熱が出るだろうな。

 

2023年12月2日

インフルエンザから回復して張り切ってボクシングジムへ行く人と、結局発熱することなく布団の中で本を読む人。

小西真理子「歪な愛の倫理 〈第三者〉は暴力関係にどう応じるべきか」を読む。

「歪」は「不正」という文字を積み上げた形をしていますが、たとえ正しいと言えないようなものであったとしても、そして、他者から見れば不可解だったり、別様に解釈されたりしてしまうようなことであったとしても、〈当人〉にとっては譲れないものがあるということについて、私はずっと考えてきたように思います。そのうちのいくつかのことを、この本には書き記したつもりです。

帯文より引用。今のわたしだから読める。著者についてはキャロル・ギリガン「抵抗への参加 フェミニストのケアの倫理」の訳者として名前を知っていたけど、まずはこの本から。

わたしにとって、他の何よりも「今・ここ」を強く感じられるのが本を買って読むことなんだと思う。

 

2023年12月3日

中村佑子と斎藤真理子のトークイベントを予約したにもかかわらず、当日すっかり忘れていた。慌てて調べたらアーカイブ配信があったのでひと安心。後で見る。

2023年11月16日

しばらく日記が書けなかった。ずっと神経が昂っていて落ち着かない。わたしにはわからないのでと言いたくないから本屋へ行って本を買うけど、自分が本を読める状態にあるかというとそうでもない。

 

2023年10月26日

くぼたのぞみ/斎藤真理子「曇る眼鏡を拭きながら」とファン・ジョンウン「百の影」を買う。

 

2023年10月29日

神保町で本を見た後、三鷹に移動。太宰治の墓参りへ。前回の墓参りからもう5年経つのか。何となく気になっていたので再訪できて嬉しい。

23時を過ぎた頃、俺は今から豚汁を作るぜと大鍋を引っ張り出して調理を始める恋人。何か手伝うことある?と聞いたら、踊るといいよと言われたので少し踊った後、歯を磨いて布団に入って本を読む。すぐに眠くなる。ごま油の匂いが充満した部屋の中で目を閉じて、酔っ払いの歌を聴きながら、彼のタフな優しさにすっかり慣れている自分に気付く。

 

2023年10月31日

29歳になった。半年前の日記を読み返す。「近くに人がいるとわたしはどうしても生きる方向に進む。自分の人生についてはどうにか生き延びたなという感想しかないと思っていたけれど、案外生きるつもりでいるのかもしれない。ひとりになって何かを読むこと、何かを書くことは死に近付くための方法だな、わたしの場合は。どちらにも引っ張られながら生活が続く。死者とともに生きていくにはどうすればいいんだろう。都合良く思い出してはまた忘れていく。耐えられない。」正直でいいな。これがわたしの提示する切実さ。

夜遅くまで散歩する。あなたのまなざしはとても綺麗なものだと思っています、最初から、というようなことを言われる。

 

2023年11月1日

友達の家で友達が作った料理を食べる。

 

2023年11月6日

夏頃から週3日でボクシングジムに通っている恋人。どんどん頑丈になっていく彼の身体を眺めながら、本当に面白い人だなと呑気に感心していたところ、これから毎日ジムに通ってプロライセンス取得を目指したいと言われる。心と身体が最短距離で繋がっていてすごいと思う。わたしはいつも心と身体がちぐはぐだから、そんな彼が時々羨ましい。怪我すると心配だよとだけ伝える。

 

2023年11月7日

ある特定の対象について考える時は頭の中で響く声に文脈が生まれて、聞こえてきてもあまり気にならない。声に対してなるほどねと相槌を打つ余裕も生まれる。そうでない時は意味があるかどうかもわからない単発の声があちこちから投げかけられて、それらを聞き取ろうとするだけで全身が疲れる。わたしにとって何かについて考えないということは、自分の身体を自分ではない誰かに明け渡すこととイコールになってしまう。どうにかならないものか。

 

2023年11月9日

久しぶりの出張。飛行機が苦手だ。搭乗前に缶ビールを一本飲んで離陸前に気絶する。気絶すれば飛行機に乗れる。

出張先で少しでも落ち着いて過ごせるように、本を2冊選んでキャリーケースに入れると決めている。どの本を持って行こうか考えながら本棚を眺めていたら、何の根拠もないけどわたしは大丈夫と思った。

川を眺めながらビールを飲む。

 

2023年11月13日

サラ・ロイ「ホロコーストからガザへ パレスチナの政治経済学」とガヤトリ・C・スピヴァクサバルタンは語ることができるか」を買う。

 

2023年11月15日

阿佐ヶ谷の書楽閉店のお知らせ。悲しい。阿佐ヶ谷での一人暮らしの二年間、日中に外を出歩く体力がなくて24時間営業のスーパーと家の往復になりがちだった頃、24時まで開いている本屋の存在はわたしを本当に励ました。

寒くなってきた。羽毛布団を出す。

2023年10月27日

現実で起きている出来事とそれを認識する自分との距離が適切に測れなくて苦しい。今わたしは苦しいということをちゃんと覚えていようと思う。

本を読む自分自身の特権を自覚しながら、それでも本を読む。疲れている。

連写された何十枚もの同じアングルの写真。そこに写るヘイラは、いずれも口元にうっすらと笑みを浮かべている。占領軍の検問のせいで路上で子を産み落とすことを余儀なくされ、生まれたばかりの赤ん坊を喪った母親に微笑みは似つかわしくない。「あの子は七ヵ月、私のお腹にいた。お乳を欲しがったけれど、あげることができなかった。あの子を空腹のまま逝かせてしまった……」と字幕で紹介されるヘイラ自身の言葉とも釣り合わない。ユダヤ人カメラマンはアラビア語の通訳を介して再三、ヘイラに笑わぬよう求めるが、向けられたレンズを前にした彼女は口元にかすかな笑みを浮かべるのをどうしてもやめなかった。いったいなぜ、ヘイラは微笑むのか?

(中略)

ヘイラは子宮というもっともプライヴェートな身体的トポスのなかで七ヵ月間、大切に守ってきたものを占領によって奪われた。失われた大切な命に対する悲しみ、彼女のもっとも内奥にある彼女自身の大切な気持ち、それだけが彼女に遺された最後の私的なるものであり、占領者に決して譲り渡せぬものだった。ヘイラの悲しみの表情を撮りたいというイスラエルのカメラマンの欲望がヒューマニズムに根差したものであることは疑い得ない。しかし、私的世界とそうでないものの境界を絶えず侵犯し、被占領者にプライヴェートな生を許さず、彼ら自身が自らの境界を画する権利を否定すること、それが占領の暴力の一つの本質、核心部分であるならば、その暴力の犠牲者であるヘイラに遺された最後の私的な世界、そこに秘められた「悲しみ」という私的感情までも白日の下に暴こうとするカメラマンのふるまいは紛れもなく占領者のそれに等しい。

岡真理「ガザに地下鉄が走る日」

絶滅収容所という,人間がただの類に還元され,その崇高さも尊厳もことごとく奪いつくされるという〈出来事〉,そしてそれを生きのびることさえもが暴力でしかないような〈出来事〉が,〈出来事〉の外部にいる者たちによって  まさに私たちが〈出来事〉の記憶に悩まされずに安心して生きられるように  人間の崇高な愛の讃歌として消費されるということ自体が,わたしには,人間が生きながらえるということの暴力性のグロテスクな戯画に思えてならない. 

そのような物語を欲しているのは私たち,〈出来事〉の外部にいる者たちである.私たちが生きのびるために.絶滅収容所を描きながら,それは絶滅収容所という暴力的な〈出来事〉の記憶を,他者と分有すべく語られているのではない.それはむしろ,その記憶を積極的に抑圧するための装置なのだ.

岡真理「記憶/物語」

ある民族の共同体の現実を、そのものの正当な文脈においてとらえることができないとしたら、それはきっとわたしたちを打つなにかとなってはね返ってくるだろう。わたしはグロテスクな文章といったが、それは他者の歴史を平然と図式で切り裂くあつかましさのことをいった。明快でもないものを記号化して、それを思弁の道具に利用することをいった。そういうことを他に対してしながらも、自らの歴史だけは、自らの現実だけは正当な文脈においてとらえることができるという保証はあるのだろうか。自らに対してだって、グロテスクになりうるのではないか。

藤本和子「砂漠の教室 イスラエル通信」

2023年10月25日

携帯のメモはどんどん溜まっていくけれど、ここに書くかどうかはまた別の話だ。

「この前ほんのちょい友達を車に乗せたら、友達とドライブするのってもしかしてめっちゃ楽しい!?ってなって、あなたとドライブしてー!と思った!」とメッセージが届く。これを愛と言わずして何と言う?

 

2023年10月16日

二日酔いで昼過ぎになっても動けない。気付いたら14時を回っていて、慌てて出かける準備をする。

土井玄臣のライブへ。開演時間に少し遅れて到着、最後列の端っこで見る。泣くもんかと思いながら、ダークナイトを聴いてやっぱり泣く。わかったつもりになんて全然なりたくないな悔しいから、でもわたしはこの人の歌がどうしてもわかる。

土井玄臣の音楽を初めて聴いた時の18歳の自分と今現在の28歳の自分、そんなに変わらないのかもと思うけど、自分の魂の輪郭を知りたくて言葉を探し続けている、本当にそれだけは諦めないでいる、この一点においてわたしは今の自分をまっすぐに選び取ることができる。

土井さんに日記を褒められて素直に嬉しい。

 

2023年10月24日

低空飛行の一週間。池間由布子のライブを見る。ほんの少しの軽さを持って、底まで降りていけたなら!